目次
- 1 質問1:宮本武蔵は本当に自分の流派を打ち立てていた?
- 2 質問2:宮本武蔵の流派はすでに途絶えたのでは?
- 3 質問3:塚原卜伝との鍋蓋仕合は実話?
- 4 質問4:宮本武蔵は卑怯な手段で勝っていただけでは?
- 5 質問5:宮本武蔵が連戦できたのは相手が弱かっただけでは?
- 6 質問6:宮本武蔵が有名流派と決闘していないのはなぜ?
- 7 質問7:宮本武蔵は「野人」で伝統・格式ある流派ではないのでは?
- 8 質問8:『五輪書』は後世の人による偽作だったのでは?
- 9 質問9:宮本武蔵は真剣勝負で二刀を使っていなかったのでは?
- 10 質問10:二天一流は二刀流ではなく「片手剣法」だったのでは?
- 11 質問11:宮本武蔵は腕力が強かっただけでは?
- 12 質問12:二天一流は他流の二刀流とはどう違う?
- 13 質問13:兵法二天一流玄信会では剣道のような打ち合う稽古は行う?
- 14 質問14:実戦的な稽古はしない?
- 15 質問15:二天一流と剣道を並行して学ぶことはできる?
質問1:宮本武蔵は本当に自分の流派を打ち立てていた?
さて、宮本武蔵の弟子の一人に徳川家康の従兄弟の水野勝成がいます。この水野勝成は(日向守だったことから)「鬼日向」と呼ばれるほどの知る人ぞ知る猛将です。まだ一般には知られていませんが、大坂夏の陣では兵法の師である宮本武蔵を自軍に迎え入れて出陣し、かの有名な勇将・後藤又兵衛基次の大軍を破っています。
その他にも、円明流時代、二刀一流時代、二天一流時代の各時代に渡って日本各地で弟子を育て、最終的に九州で二天一流を弟子たちに継承させました。このように、一般的な「孤高の武芸者」というイメージとは異なり、宮本武蔵は数多くの弟子をとって、自分の流派を打ち立てていたのです。
質問2:宮本武蔵の流派はすでに途絶えたのでは?
現代では主に山東派と野田派の二系統が全国各地に分派して伝わっています。我々兵法二天一流玄信会は、熊本に伝わった山東派二天一流の一つである細川家伝統兵法二天一流から独立・派生した二天一流です。
質問3:塚原卜伝との鍋蓋仕合は実話?
また、この他にも居合の達人何某が宮本武蔵に勝負を挑み宮本武蔵が負けを悟って相手の勝ちを宣言したというような話がありますが、そういった話を裏付ける事実は存在しません。
このように「宮本武蔵が負けた(負けを認めた)」という話がいくつか残されているのは、「宮本武蔵に勝った」ということが当時の兵法者たちにとって己や己の流派に「箔を付ける」ことだったからではないかと考えられます。つまり、「誰それは宮本武蔵に勝った」という話が現れること自体、宮本武蔵の技量は当時から広く達人級と認識されていたと言えるのではないでしょうか。
質問4:宮本武蔵は卑怯な手段で勝っていただけでは?
質問5:宮本武蔵が連戦できたのは相手が弱かっただけでは?
対戦相手の流派が現代で名を聞かないのは、当時はトップレベルの実力を誇っていたものの、宮本武蔵に敗れたことで名声を失い、その結果、歴史から姿を消してしまったからだと考えられます。
そのため、対戦相手が弱かったために勝ち続けられたのではない、と考えるのが正しいのではないでしょうか。
質問6:宮本武蔵が有名流派と決闘していないのはなぜ?
また宮本武蔵と面識があり、柳生宗矩から印可を与えられていた渡辺幸庵という人物が「但馬(※柳生宗矩)にくらべ候てハ、碁にていハば井目も武蔵強し」と書き残している史料が残っています。柳生新陰流が徳川将軍家兵法師範であったことから直接的には決闘していませんが、同時代の他流派の総帥・継承者レベルの達人に対しても大きな実力差をもっていたと考えられるのではないでしょうか。
質問7:宮本武蔵は「野人」で伝統・格式ある流派ではないのでは?
なお、幼少の宮本武蔵が学んだ当理流は、京八流の一派である円明流(青年期の宮本武蔵が立てた円明流のいわば本家)の兵法者であった宮本(新免)無二が打ち立てた流派であり、それを基にして宮本武蔵は自身が経験した数多くの実戦経験に基づく工夫改良を重ねて二天一流を打ち立てました。その精華が『五輪書』を始めとした二天一流の伝書です。当時は無学文盲の兵法者の方が多く、自分の名前すら書けない者がたくさんいたという時代でした。そのような時代背景を考えますと、宮本武蔵は当時でも破格の教養の持ち主であり、二天一流は他流派に劣らない伝統と格式の上に成立した流派であることが分かります。
質問8:『五輪書』は後世の人による偽作だったのでは?
また、歴史上は原本が存在しない伝書類は数多くあります。武道伝書以外でも、たとえば『源氏物語』や『枕草子』なども原本は存在しませんが、現代でも『五輪書』偽書説を言う人は、果たしてこれらも偽書と言っているのでしょうか。『五輪書』の原本が存在しないことがそのまま偽書説に繋がるのであれば、これらについても偽書説が出なければおかしいですよね。
質問9:宮本武蔵は真剣勝負で二刀を使っていなかったのでは?
また宮本武蔵本人の残した伝書から考えますと、たとえば青年期の宮本武蔵の著した『兵道鏡』には、二刀の技の詳しい説明や二刀同士の戦いの方法などが詳細に説かれており、ここからも宮本武蔵が二刀流の達人であり、若いときから二刀を用いた数多くの実戦経験を持っていたことが分かります。
質問10:二天一流は二刀流ではなく「片手剣法」だったのでは?
『五輪書』の片手剣法論ですが、これは当時の二天一流が根付いた肥後・細川家において、細川家中の武士たちは複数流派の併学が義務づけられていたことから、二天一流の技が一刀主体の他流派の技と衝突しないように宮本武蔵が配慮した結果の記述です。
現実には、宮本武蔵から連綿と伝承された二天一流の技は、大小二刀を駆使する技となっており、それは片手剣法を主張する一部の派も同様の型となっています。たとえば、二刀を十字に組み相手の斬撃を受け止める技(細かい違いはありますが、この技は二天一流のどの派にも伝わっています)は、果たして「片手剣法」と言えるでしょうか?
また、宮本武蔵の青年期の伝書『兵道鏡』には二刀対二刀の対戦方法が「真位之位」として書かれています。ここからも、宮本武蔵が片手剣法ではなく二刀流で戦っていたということが分かります。
質問11:宮本武蔵は腕力が強かっただけでは?
また、宮本武蔵自身も『五輪書』の風の巻において「強みの太刀」として腕力に頼った剣術を批判しています。つまり、一般的なイメージと異なり、宮本武蔵の剣も腕力頼みの剣術ではなかったということです。
質問12:二天一流は他流の二刀流とはどう違う?
このような二天一流独自の技は、当初から二刀を二刀そのものとして修業しなければ身につけることはできないと我々は考えています。他流派の二刀の技は、主たる一刀主体の技とは別個かつ並列的に存在するものといえます。つまり、基本から奥儀まですべての技が二刀によって統一されているというわけではありません。最初から最後まで二刀の技で統一されているのが、二天一流の最大の特徴と言えるでしょう。
質問13:兵法二天一流玄信会では剣道のような打ち合う稽古は行う?
また、勢法(型)の稽古も、茶道や華道のように、型どおりの動作ができればよいというものではなく、実際に真剣勝負で戦える技と精神を鍛えるという観点で稽古をしていきます。
質問14:実戦的な稽古はしない?
武道の修練は、大きく分けて「技を創る」という過程と「技を使う」という過程があります。なお、この「技を創る」「技を使う」という論理は、武道哲学者・武道科学者である南鄕継正先生が発見した武道理論です。
以上の二つの過程を、「技は創ってから使う」という正しい順序で学んでいくことが、武道を極めるために必須であると我々は捉えています。よって、現在は「技を創る」という過程にいますが、会員全体の実力向上に伴い、将来的には「技を使う」ための修練も正式な体系として検討していく予定です。
質問15:二天一流と剣道を並行して学ぶことはできる?
二天一流と剣道を並行して学ぶ場合、基本とされる体の使い方に多くの異なる点があることに戸惑われると思います。たとえば剣道では踵を浮かして両足を相手にまっすぐに向けますが、兵法二天一流玄信会では撞木足(踵を地面に付け、後ろ足を相手に向かって斜めにする足)を基本としています。運足については、二天一流では左右の足を交互に出す歩み足が基本ですが、剣道では常に右足を前に出したすり足での継足が基本です。現代剣道は、障害物のない平らな床の上で、防具と竹刀を用いて一対一の戦いをする武道として行われてきたことが、このような違いを生じさせたひとつの理由です。
したがって、すぐに二天一流の技を剣道の試合で使ったり、剣道で身に付けた動きを二天一流に応用することはできません。初心のうちは二天一流の基本をしっかりと身に付けることをお勧めします。しかし、そもそも現代剣道の防具をつけて竹刀で打ち合うという稽古方法は、江戸時代中期の古流剣術で「技を使う」ための稽古方法として発明され、当時は修業者の実力を大いに高めることができたものでした。剣道の稽古方法を論理的に捉え、二天一流の基本の稽古とともに正しく行っていけば、二天一流の技を実戦で使えるようになっていけるでしょう。
なお、兵法二天一流玄信会の会則では、全剣連(全日本剣道連盟)居合及び他流派の古流剣術・居合を現在も学んでいる人は入会できません。その理由は、『技を創る』という観点から、他流派の技を併学することでどっちつかずの技になってしまい、二天一流も他流派も極めることができなくなってしまうからです。