二天一流Q&A

質問1:宮本武蔵は本当に自分の流派を打ち立てていた?

Question1
宮本武蔵に興味があります。小説では、宮本武蔵は弟子を取らなかったみたいですが、本当に自分の流派を打ち立てていたのでしょうか?
Answer
 「孤高の武芸者」というイメージの宮本武蔵ですが、青年期からすでに自らの流派を打ち立て、弟子を取っていたことが分かっています。青年期に打ち立てたのは円明流という流派であり(なお、円明流という流派名は「日月=太刀と小太刀=二刀を円く統一する」という二刀の隠喩です)、その後、数々の真剣勝負と合戦経験をふまえて、最大の特徴である二刀流を流派名としても明示した二刀一流を打ち立て、最終的には剣術だけでなく大分の兵法(「大分の兵法」とは、合戦に勝利を収め、国を治めるための兵法)を含む二天一流にまで高め、数多くの弟子を育てました。

さて、宮本武蔵の弟子の一人に徳川家康の従兄弟の水野勝成がいます。この水野勝成は(日向守だったことから)「鬼日向」と呼ばれるほどの知る人ぞ知る猛将です。まだ一般には知られていませんが、大坂夏の陣では兵法の師である宮本武蔵を自軍に迎え入れて出陣し、かの有名な勇将・後藤又兵衛基次の大軍を破っています。

その他にも、円明流時代、二刀一流時代、二天一流時代の各時代に渡って日本各地で弟子を育て、最終的に九州で二天一流を弟子たちに継承させました。このように、一般的な「孤高の武芸者」というイメージとは異なり、宮本武蔵は数多くの弟子をとって、自分の流派を打ち立てていたのです。

質問2:宮本武蔵の流派はすでに途絶えたのでは?

Question2
しかし宮本武蔵の流派は途絶えたと聞いたことがあるのですが、本当ですか?
Answer
 明らかな間違いです。宮本武蔵が青年期に打ち立てた円明流や、晩年にこれらをさらに進化させた二天一流の各流各派は、熊本、福岡、名古屋など日本各地で途絶えることなく継承されてきました。しかし明治維新を境に多くの円明流・二天一流各派が断絶の憂き目に遭いました。

現代では主に山東派と野田派の二系統が全国各地に分派して伝わっています。我々兵法二天一流玄信会は、熊本に伝わった山東派二天一流の一つである細川家伝統兵法二天一流から独立・派生した二天一流です。

質問3:塚原卜伝との鍋蓋仕合は実話?

Question3
 巷で宮本武蔵について言われていることは間違っているものが多いのですね。同じくよく聞く有名な話に、塚原卜伝との鍋蓋仕合というのがあります。宮本武蔵の一撃を塚原卜伝が鍋蓋で止めてみせたことで、宮本武蔵は己の負けを悟って去って行ったといわれますが、この話は本当なのでしょうか?
Answer
 塚原卜伝の没年は元亀2年(1571)と考えられ、一方、宮本武蔵の生年は最も早くて天正10年(1582)と考えられます。つまり宮本武蔵が生まれる10年ほど前に塚原卜伝は死亡しています。よってこの話自体が後世の作り話と考えるのが正しいでしょう。
また、この他にも居合の達人何某が宮本武蔵に勝負を挑み宮本武蔵が負けを悟って相手の勝ちを宣言したというような話がありますが、そういった話を裏付ける事実は存在しません。
このように「宮本武蔵が負けた(負けを認めた)」という話がいくつか残されているのは、「宮本武蔵に勝った」ということが当時の兵法者たちにとって己や己の流派に「箔を付ける」ことだったからではないかと考えられます。つまり、「誰それは宮本武蔵に勝った」という話が現れること自体、宮本武蔵の技量は当時から広く達人級と認識されていたと言えるのではないでしょうか。

質問4:宮本武蔵は卑怯な手段で勝っていただけでは?

Question4
 鍋蓋仕合は嘘だったとしても、現実では宮本武蔵は卑怯な手段で勝っていたのではないでしょうか。本当に宮本武蔵は強かったといえるのでしょうか?
Answer
宮本武蔵は日本剣豪史上最高の実力の持ち主であると我々は考えています。卑怯な手段というと、たとえば遅刻戦法が一般的に有名です。しかし宮本武蔵がこのような戦法を用いたというのは、いくつか伝わっている伝説の一つに過ぎません。たとえば有名な巌流島の決闘は、宮本武蔵没後間もなく建立された小倉碑文によれば「両雄同時に相会し」とあるように、史実では記録に残っている全ての勝負において、正々堂々を絵に描いた戦いをして全て勝利を収めていました。

質問5:宮本武蔵が連戦できたのは相手が弱かっただけでは?

Question5
 宮本武蔵が卑怯な手段を使って勝ったわけではないのは分かりました。しかし現代では名前も聞かない流派が相手であることから、そもそも対戦相手が弱かっただけなのではないでしょうか?
Answer
 宮本武蔵が決闘をした時代は、剣術が最も発展した戦国時代末期から江戸時代初期です。その時代にトップクラスの実力者であった足利将軍家兵法師範の吉岡流や細川家兵法師範の巌流といった達人たちを相手に生涯で60回余りも真剣勝負を行い、全てに勝利しています。
対戦相手の流派が現代で名を聞かないのは、当時はトップレベルの実力を誇っていたものの、宮本武蔵に敗れたことで名声を失い、その結果、歴史から姿を消してしまったからだと考えられます。
そのため、対戦相手が弱かったために勝ち続けられたのではない、と考えるのが正しいのではないでしょうか。

質問6:宮本武蔵が有名流派と決闘していないのはなぜ?

Question6
 それでも宮本武蔵は柳生新陰流などの有名流派とは決闘していないのではないでしょうか?
Answer
 柳生新陰流の雲林院弥四郎という、細川家の兵法師範を務めるほどの達人を相手に(一説では)細川忠利の御前で仕合をしており、宮本武蔵は相手に全く技を出させず、相手をわざわざ斬る必要すらないほどの圧倒的な実力差で勝利していたと伝わっています。
また宮本武蔵と面識があり、柳生宗矩から印可を与えられていた渡辺幸庵という人物が「但馬(※柳生宗矩)にくらべ候てハ、碁にていハば井目も武蔵強し」と書き残している史料が残っています。柳生新陰流が徳川将軍家兵法師範であったことから直接的には決闘していませんが、同時代の他流派の総帥・継承者レベルの達人に対しても大きな実力差をもっていたと考えられるのではないでしょうか。

質問7:宮本武蔵は「野人」で伝統・格式ある流派ではないのでは?

Question7
 しかしいくら強かったと言っても、宮本武蔵は「野人」というイメージがあります。やはり伝統と格式ある流派には劣るのではないでしょうか?
Answer
 小説や映画などのイメージから、宮本武蔵に対して「野人」というようなイメージを持つ方も多いようです。しかし、宮本武蔵は養父であった当理流の兵法者・宮本(新免)無二より、幼少の頃から兵法は当然のこと、教養面でも上級武士として超一流のエリート教育を受け、当理流の正統継承者として育てられていたことが分かっています。つまり、野人というイメージからは大きく異なり、伝統・格式のあるバックグラウンドを持っていたのです。
なお、幼少の宮本武蔵が学んだ当理流は、京八流の一派である円明流(青年期の宮本武蔵が立てた円明流のいわば本家)の兵法者であった宮本(新免)無二が打ち立てた流派であり、それを基にして宮本武蔵は自身が経験した数多くの実戦経験に基づく工夫改良を重ねて二天一流を打ち立てました。その精華が『五輪書』を始めとした二天一流の伝書です。当時は無学文盲の兵法者の方が多く、自分の名前すら書けない者がたくさんいたという時代でした。そのような時代背景を考えますと、宮本武蔵は当時でも破格の教養の持ち主であり、二天一流は他流派に劣らない伝統と格式の上に成立した流派であることが分かります。

質問8:『五輪書』は後世の人による偽作だったのでは?

Question8
 しかし、その『五輪書』は原本が存在せず、後世の人の偽作であるという説があるのですが。
Answer
 『五輪書』偽書説が生まれた歴史を見ますと、福岡・黒田家に二天一流を伝えた寺尾孫之丞が宮本武蔵から『五輪書』を相伝されており、熊本に二天一流を伝えた寺尾求馬助は『兵法三十九箇条』と『五方之太刀道』を相伝されています。そして後世、福岡と熊本で、それぞれが相伝された伝書を流儀継承の秘伝書としてきました。こうした歴史の流れの中で、宮本武蔵からどのような経緯でそれぞれの伝書が伝わったのかを知らない一部の修業者が、『五輪書』を根拠無く偽書と言いだしたことに『五輪書』偽書説は端を発しています。
また、歴史上は原本が存在しない伝書類は数多くあります。武道伝書以外でも、たとえば『源氏物語』や『枕草子』なども原本は存在しませんが、現代でも『五輪書』偽書説を言う人は、果たしてこれらも偽書と言っているのでしょうか。『五輪書』の原本が存在しないことがそのまま偽書説に繋がるのであれば、これらについても偽書説が出なければおかしいですよね。

質問9:宮本武蔵は真剣勝負で二刀を使っていなかったのでは?

Question9
 宮本武蔵が文武両面で超一流の達人だったことは分かりましたが、宮本武蔵自身は真剣勝負において二刀を使っていたのでしょうか?小説も含めて有名な勝負はほぼすべて一刀で勝負していることから、二刀は実戦的ではないのではないでしょうか。
Answer
 二天一流の「戦いの事例集」ともいえる『二天記』には巌流島の決闘までの戦いでは一刀で戦う描写がほとんどですが、これはいつも二刀をもって戦う宮本武蔵が例外的に一刀を用いた珍しい事例だったからこそ書かれているものです。老年は二刀で戦う描写がほとんどであるのは、例外的に一刀を用いることすらせず全て二刀を用いたことから、二刀の描写だけしか描く材料が無かったということによると考えられます。

また宮本武蔵本人の残した伝書から考えますと、たとえば青年期の宮本武蔵の著した『兵道鏡』には、二刀の技の詳しい説明や二刀同士の戦いの方法などが詳細に説かれており、ここからも宮本武蔵が二刀流の達人であり、若いときから二刀を用いた数多くの実戦経験を持っていたことが分かります。

質問10:二天一流は二刀流ではなく「片手剣法」だったのでは?

Question10
 しかし宮本武蔵は『五輪書』の中で、二刀を学ばせる理由として「太刀を片手にてとり習わせんがためなり」と書いてあります。実際、「二天一流は二刀流ではなく片手剣法です」と主張している二天一流の一派もあります。宮本武蔵は二刀流ではなく片手剣法として強かったのではないでしょうか?
Answer
 「片手剣法」を主張する一部の二天一流が存在するのは事実ですが、我々兵法二天一流玄信会は、二天一流は最初から最後まで二刀の技で構成された剣術であると捉えています。よって全ての型や基本技は、二刀を使うことができるための鍛錬として位置づけています。兵法二天ー流玄信会でも、二刀の他に抜刀・一刀・小太刀の技を稽古しますが、それらも二刀から派生した技であり、かつ、二刀流鍛錬の一環として稽古しています

『五輪書』の片手剣法論ですが、これは当時の二天一流が根付いた肥後・細川家において、細川家中の武士たちは複数流派の併学が義務づけられていたことから、二天一流の技が一刀主体の他流派の技と衝突しないように宮本武蔵が配慮した結果の記述です。

現実には、宮本武蔵から連綿と伝承された二天一流の技は、大小二刀を駆使する技となっており、それは片手剣法を主張する一部の派も同様の型となっています。たとえば、二刀を十字に組み相手の斬撃を受け止める技(細かい違いはありますが、この技は二天一流のどの派にも伝わっています)は、果たして「片手剣法」と言えるでしょうか?
また、宮本武蔵の青年期の伝書『兵道鏡』には二刀対二刀の対戦方法が「真位之位」として書かれています。ここからも、宮本武蔵が片手剣法ではなく二刀流で戦っていたということが分かります。

質問11:宮本武蔵は腕力が強かっただけでは?

Question11
 二天一流は二刀流であり、宮本武蔵が二刀流を使って数々の達人相手に勝利してきたのは分かりましたが、宮本武蔵の二刀流は宮本武蔵の腕力があったからこそ使えたのであって、他の人が学んでも宮本武蔵ほどには強くなれないのではないでしょうか?
Answer
 二刀流に腕力は全く関係ありません。兵法二天一流玄信会の稽古によって体全体を使って日本刀を扱う技を修練すれば、歴代の継承者たちと同じく、腕力に関係なく誰でも二刀流を修得することができます。

また、宮本武蔵自身も『五輪書』の風の巻において「強みの太刀」として腕力に頼った剣術を批判しています。つまり、一般的なイメージと異なり、宮本武蔵の剣も腕力頼みの剣術ではなかったということです。

質問12:二天一流は他流の二刀流とはどう違う?

Question12
 腕力がなくても二刀流を学べるということはわかりましたが、『五輪書』でも批判されているような他流派でも二刀の技があります。二天一流の二刀流は他流派の二刀流と何が違うのでしょうか?
Answer
 宮本武蔵の二天一流そして兵法二天一流玄信会の二刀流は、基本技から勢法五法之太刀に至るまで、一刀や小太刀、抜刀術なども含めてすべて二刀の技・二刀の鍛錬となる技として組み立てられていることが最大の違いです。また、技そのものについては、大小二刀という間合いの異なる武器を同時に用いる技であるのが特徴です。

このような二天一流独自の技は、当初から二刀を二刀そのものとして修業しなければ身につけることはできないと我々は考えています。他流派の二刀の技は、主たる一刀主体の技とは別個かつ並列的に存在するものといえます。つまり、基本から奥儀まですべての技が二刀によって統一されているというわけではありません。最初から最後まで二刀の技で統一されているのが、二天一流の最大の特徴と言えるでしょう。

質問13:兵法二天一流玄信会では剣道のような打ち合う稽古は行う?

Question13
 それでは、宮本武蔵の真意の実現を目指す兵法二天一流玄信会の稽古はどのようなものなのでしょうか?剣道のように実際に打ち合ったりする試合はするのですか?
Answer
 現時点(平成29年現在)では、試合や互角稽古(自由に打ち合う稽古)はしていません。稽古はすべて基本技である前八と勢法(型)の修練です。
また、勢法(型)の稽古も、茶道や華道のように、型どおりの動作ができればよいというものではなく、実際に真剣勝負で戦える技と精神を鍛えるという観点で稽古をしていきます。

質問14:実戦的な稽古はしない?

Question14
 ということは、現在は実戦的な稽古はしないのでしょうか?
Answer
 流祖・宮本武蔵先生の技を復元するため、現在は流派としても「技を創る」という過程を修練している段階です。

武道の修練は、大きく分けて「技を創る」という過程と「技を使う」という過程があります。なお、この「技を創る」「技を使う」という論理は、武道哲学者・武道科学者である南鄕継正先生が発見した武道理論です。

以上の二つの過程を、「技は創ってから使う」という正しい順序で学んでいくことが、武道を極めるために必須であると我々は捉えています。よって、現在は「技を創る」という過程にいますが、会員全体の実力向上に伴い、将来的には「技を使う」ための修練も正式な体系として検討していく予定です。

質問15:二天一流と剣道を並行して学ぶことはできる?

Question15
 実戦的な技にするために、剣道も学ぼうと思うのですが。
Answer
 兵法二天一流玄信会の会則では、現代剣道を学んでいるだけであれば入会は可能です。

二天一流と剣道を並行して学ぶ場合、基本とされる体の使い方に多くの異なる点があることに戸惑われると思います。たとえば剣道では踵を浮かして両足を相手にまっすぐに向けますが、兵法二天一流玄信会では撞木足(踵を地面に付け、後ろ足を相手に向かって斜めにする足)を基本としています。運足については、二天一流では左右の足を交互に出す歩み足が基本ですが、剣道では常に右足を前に出したすり足での継足が基本です。現代剣道は、障害物のない平らな床の上で、防具と竹刀を用いて一対一の戦いをする武道として行われてきたことが、このような違いを生じさせたひとつの理由です。

したがって、すぐに二天一流の技を剣道の試合で使ったり、剣道で身に付けた動きを二天一流に応用することはできません。初心のうちは二天一流の基本をしっかりと身に付けることをお勧めします。しかし、そもそも現代剣道の防具をつけて竹刀で打ち合うという稽古方法は、江戸時代中期の古流剣術で「技を使う」ための稽古方法として発明され、当時は修業者の実力を大いに高めることができたものでした。剣道の稽古方法を論理的に捉え、二天一流の基本の稽古とともに正しく行っていけば、二天一流の技を実戦で使えるようになっていけるでしょう。

なお、兵法二天一流玄信会の会則では、全剣連(全日本剣道連盟)居合及び他流派の古流剣術・居合を現在も学んでいる人は入会できません。その理由は、『技を創る』という観点から、他流派の技を併学することでどっちつかずの技になってしまい、二天一流も他流派も極めることができなくなってしまうからです。

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